憲法21条表現の自由における「自己実現の価値」は、
言論活動を通じて自己の人格を発展させるという個人的なところにある。
これに対し「自己統治の価値」は、
自由な情報収取等により民主的な政治を実現するという社会的なところにある。
そしてこれら自己実現・自己統治のためには自由な表現が欠かせない。
だからこそ憲法21条の「表現の自由」は大事であるとされている。
以下で詳しく見ていく。
「自己実現」の意味
自己実現とは、
「自己の発達を遂げていくこと」
「個人がある目標に向かって進んでいくこと」
「人間が生きる上で在るべきところに到達していくこと」
などと表現される。
- つまり成長をすることや、そのための活動をできるということが重要なのであり、こうして人格は形成されていく。
- その過程では、人はコミュニケーションを取り、そのやり取りの中で自分自身を成長させていく。
話をすることや表現するといったことなどは当然、その過程で必要。
さらに、他者による表現から色々な情報を収集、知識を付け、自己決定をできるようにもなる。 - 特にクリエイティブな活動を職業とする者は、自由な表現ができるからこそ活動ができるのであり、芸術家・漫画家・小説家などの直接的な自己実現に繋がる。
もちろん、職業として表現活動をする者以外においても自由な表現は自己実現のために重要である。
逆に表現の自由が保障されていなければ、言いたいことも言えなくなり自己実現は果たせなくなる。
「自己統治」の意味
自己統治とは、
「社会がどうあるべきか、その意見を自己決定できること」
を意味する。
社会で起こっていることにつき情報収集し、そこから結論を導き、どのような形であれば社会全体が幸せになれるのか、これを決められることを言う。
自己実現とは違って社会的意義にあると言える。
- 例えば日本全体を考えたとき、選挙を通じて政治家を選び、その者によって社会の状態が変わることになる。
- そこでは社会の状態を知ること、政治家について知るためには正しい情報が得られなければならない。
- 表現の自由が保障されていなければ情報を得ることができなくなり、結果として自己統治が果たせないということに繋がる。
- よって、自己統治は社会的な意義を有し、民主主義を支えるものとされる。
逆に自己統治ができていなければ、国民は政治について意見ができなくなり、民主主義とは言えなくなる。
なお、政治に関する情報、知的性質の高い表現活動にだけ厚く保護が与えられるわけではない。
原則はあらゆる情報が保護され、国が表現内容に対する規制をしてはいけないと考えるのが基本。
情報の良し悪しは国民自身が決めるのである。
表現の自由と自己実現・自己統治の関係をかんたんにまとめる
- 自己実現の価値
= 「個人の人格形成のために必要なもの」 - 自己統治の価値
= 「民主主義に繋がる自己判断をするために必要なもの」
自己実現の価値、自己統治の価値は非常に高く、これを果たすことに表現の自由の価値があるとされる。
なぜなら表現をするということは個人の成長に繋がり、民主主義にも欠かせないため。
ここまでで分かるように、表現の自由は非常に重要なものである。
そのため表現の自由に代表される精神的自由は経済的自由に優越するとされる(人権としての価値が高いことを意味する)。
そこで(表現の自由を含む)精神的自由を例外的に制限する場合であっても、その合憲性の判定基準は経済的自由に比べて厳格になる。
これを「二重の基準論」という。
自己実現・自己統治の価値は高い → だから表現の自由は優越的地位(二重の基準論)
二重の基準論についてはコチラの記事。

表現の自由についてはこちら

関連する判例を紹介
自己実現の価値、自己統治の価値に関連する判例をいくつか紹介。
ごくかんたんに要所だけを挙げていく。
よど号事件新聞記事抹消事
(昭和58年6月22日)
- 自由に情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、自己の人格を形成・発展させ社会生活の中にこれを反映させていくうえで欠くことができない。
- また、民主主義社会における情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要である。
- そのため新聞や図書等の閲読の自由が憲法上保障されるべきことは、表現の自由を保障した憲法21条等から、その派生原理として当然に導かれる。
傍聴人に対するメモ制限の合憲性
(平成元年3月8日)
上の判例(昭和58年6月22日)同様、
表現の自由を保障することは自己実現および自己統治には欠かせず、民主主義社会における基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも必要であるとしている。
その上で、情報等に接してこれを摂取する自由は、いわば派生原理として当然に導かれると評価している。
性表現の規制
- 性表現も表現活動の1つであり、憲法21条によって保障されることに争いはない。
- しかし性表現に対する規制として、刑法175条(わいせつ文書等頒布罪)があり、合憲性が問題になる。
- 性表現と言っても動機や目的によっては自己実現や自己統治に寄与することもあり、これに対する制約は必要最小限度のものでなければならないと解すべき。
- したがって、刑法175条における「わいせつ」概念を限定的に解する限りにおいて、合憲であると解する。
- また、わいせつ文書を取り締まる目的は、わいせつ文書を見たくないと思う人にとって苦痛であることにあり、社会的価値を欠くものまで保護する必要はないと考えられる。
- そこで判例では「わいせつ」の概念を「性欲を興奮または刺激せしめ、普通人の正常な性的蓋恥心を害し、善良な性的道徳観念に反するもの」をいうと定義した。
名誉棄損的表現への規制
(昭和44年6月25日)
- 名誉毀損的表現も表現活動の一態様であるため憲法21条により保障される。
- 表現の自由は個人の自己実現・国民の自己統治に奉仕する重要な人権であるが、他方で名誉権も個人の尊厳と結びつき、人格的生存に不可欠な権利であるとして、憲法13条で保障されている。
- そこで等価的な利益衡量が妥当すると解すべきであるが、公共性のある事項に関する表現行為では、表現の自由が名誉に優先するものと解すべきとも言える。
- なぜなら、公的人物・政党に関する表現・批判活動に関しては自由な表現を認めなければ民主主義社会の維持ができないからである。
- そしてその情報が真実もしくは真実性を推測させるに足るもので、正当であると信じてなされた場合には、憲法の保障する表現の自由の範疇にあると考える。
- 判例でも、たとえ事実が真実であることの証明がなくても、行為者がその事実を真実であると誤信し、誤信したことについて相当の理由があるなら名誉設損罪は成立しないとしている。
石に泳ぐ魚事件
(平成14年9月24日)
この判例もやはり表現の自由と人格権の対立に関するもの。
- 人格権に基づいて侵害行為の差止めが認められるのはどのような場合か、という問題。
- 人格権は個人の人格的価値に関わる利益を保護するもので、事後的に回復を図ることは容易ではないという性格を有する権利である。
- しかし他方、表現の自由は個人の自己実現の価値と国民の自己統治の価値から、優越的地位を有する権利でもあり、人格権との優劣は簡単には決められない。
- そこで、侵害行為の対象となった人物の社会的地位、侵害行為の性質を考慮しつつ、予想される侵害行為によって受ける被害者側の不利益と侵害行為を差し止めることによる侵害者側の不利益とを比較衡量して決する必要がある。
- そして、侵害行為が明らかに予想され、その行為によって被害者が重大な損失を受けるおそれがあり、かつ、その回復を事後に図るのが不可能ないし著しく困難になると認められるなら、侵害行為の差止めが認められると解される。